M1歴代最高得点保持者ミルクボーイのすごさ

前回の投稿から少し時間が空いてしまいました。。。最近は忙しく、お笑いを見る時間も忘れて寝てしまうこともありまして。。。

言い訳はさておき、今回は簡単にミルクボーイの凄さについて書きます。M1で歴代最高得点を取った彼らの凄さとは、一体なんなのでしょうか?

① 最強の「箱」の発明

ミルクボーイのネタの最大の特徴といえば、同じ「型」を使って幅広いネタをこなしてしまうことです。つまり、その型という「箱」に入れれば、なんでも面白くできてしまうということです。

その箱とは、2019年のM1で松本人志さんが「行ったり来たり漫才」と称したように、「おかんが忘れた〇〇」を駒場さんが出すヒントをもとに「ほな〇〇やな」「ほな〇〇ちゃうな」と迷い続けるスタイルです。

そして結局、その答えにはありつけず、「おとんがいうにはな、●●ちゃうか」「そんなわけないやろ」で締めるのが定番となっています。

たとえばM1で最高得点を記録した「コーンフレーク」や、決勝戦で見せた「モナカ」が代表作ですが、そのほかにも「サイゼ」「競歩」「SASUKE」「滋賀」「」「座椅子」などがあります。

また、M1優勝後はいろいろな番組に出演する際に、「その番組の宣伝」といった形でもネタを披露しています(あまり知らない番組だと大変、と毒づいていましたが笑)。

このように、彼らの作った最強の「箱」をもってすれば、いろいろなネタを面白くできてしまうのです。この発明こそが、ミルクボーイの凄さだと思います。

② ネタのチョイスの秀逸さ

この箱に入れれば色々なネタを面白くできる、とは書きましたが、さすがにどんなネタでも面白くなるわけではないでしょう(理論上、どんなネタでもこなすことはできると思いますが)。

だからこそ、彼らのネタのチョイスのセンスが光るのです。

この最強の箱に入れる「ちょうどいい」ネタを選び抜く力が、この箱の良さを引き出し、そしてそのネタ自体も輝かせています。

たとえば上に書いた「コーンフレーク」「モナカ」「サイゼ」「競歩」「SASUKE」「滋賀」「鳩」「座椅子」は、おそらく老若男女の誰しもが馴染みがあるネタだと思います(もちろん、馴染みの度合いは異なりますが)。

だからこそ、駒場さんの出すヒント(=その題材の特徴)に共感でき、想像力がかき立てられて笑えてくるのだと思います。

とはいえ、ただ馴染みがあるネタを選ぶだけではあまり面白味がないと思います。

たとえば「コンビニ店員」などのネタは漫才のネタとして超がつくほど「あるある」だと思いますが、そのような「踏み倒された」ものはあまり題材になりません。

では、どのようなものを題材にしているかというと、「ニッチで少しマイナーだけどよく知られているもの」と言えると思います。

簡単な言葉で言い換えると、「みんな普段接しているけどわざわざ気に留めないもの」「他の芸人たちがネタにしようと思わないもの」ということです。

これにより、観客に共感やとっつきやすさを感じさせることができ、また他の芸人との差異を生み出すことができるのです。これが「ミルクボーイらしさ」となっています。

③ 程良い「人間らしさ」のなさ

2019年のM1でナイツ塙さんがいっていたのですが、いい漫才はネタがいいのはもちろんですが、その人たちにしかできないネタという「人間らしさ」が重要になってきます。

サンド富澤さんもよくM1のコメントで「もっと人間らしさが出るといい」「マシーンを見ているようだった」といったコメントをしています。

それくらい、ネタ作りだけでなくそのネタを見せる芸人さんの人間らしさは大切なのです。

ではミルクボーイの場合どうかというと、僕は彼らの「強すぎない人間らしさ」が彼らの最強の箱とネタを際立たせているとみています。

「人間らしくない」「機械的だ」といっているのではなく、彼らは自分たちの個性を全面的に出していないということです(あるいはもともと控えめな性格なのかもしれませんが)。

決して悪い意味ではないですが、彼らのネタの箱はとても「機械的」です。他の芸人が彼らのネタをやってもきっと面白いでしょう(これが彼らのネタ自体の強さです)。実際かまいたちがミルクボーイのネタをパクってやった時も普通に面白かったです。

ただ、この機械的なネタの箱に強い個性はミスマッチになると僕は思います。どういうことかというと、見る側としては彼らのネタのスムーズな「行ったり来たり」をみたいわけですが、そこに強い個性が入り込むとそっちが気になってネタの秀逸さが薄まってしまうということです。

その点ミルクボーイの二人は、「ザ・漫才師」とも言えるようなスーツ姿で一定のトーンやリズム、イントネーションの話し方を貫いております。

このように、最強の箱に入ったちょうどいいネタにノイズが入らずストレートに伝えられるのも、ミルクボーイの凄さです。

僕は漫才師ではないので詳しい事はわかりませんが、教師として人前に立つときにはやはり個性を出してしまいたくなるものです(その方がいいと思ってあえてやっている面もあります)。

それをちょうどいいバランスで発揮しているミルクボーイさんの凄さに僕は感服させられます。

④ ちょうどいい毒と愛

最後にネタの中で見せる彼らのことばに関してですが、これまたちょうどいい毒と愛が感じ取れます。もちろん人によっては毒が強すぎると感じる時もあるかもしれませんが、大衆にとってみればとてもちょうどいいレベルだと思います。

ナイツ塙さんは本の中で、ネタにはある程度「毒」のような要素が必要と述べています。

人々が日頃感じているけどなかなかいえない事を笑いに変えていってしまうのはお笑いの機能の一つだからです。

そこに観客は共感し、笑いが起きるだけでなく浄化されるのだと思います(ウエストランドのネタを見た時に感じる気持ちはまさにこれです)。

ミルクボーイのネタは、その題材の特徴を述べる際に、必ず多少の「毒」を吐くことになります。

例えば「コーンフレークの栄養素の五角形が大きいのは牛乳のおかげ」、「サイゼでお酒を飲むのは暇な人だけ」「日本競歩協会なんてない」といった具合です(文字にすると結構「猛毒」に感じますが、実際はもっとマイルドに聞こえます笑)。

ですが、このような多少の毒がネタにスパイスを与えているのは間違いありません。

「行ったり来たり」を繰り返すネタは得てして単調になりがちなわけですが、そこに適量の毒が入る事で飽きられないのです。

一方、彼らのネタには「愛」も感じます

第一に、そもそも「ニッチで少しマイナーなもの」をネタにしてあれだけの熱意で語る時点で愛があると言えると思います(語弊を恐れずにいえば、京都や大阪ではなく滋賀県についてあれだけ熱く語る人はそんなにいないかもしれません)。

また、題材の特徴を細部まで調べている(観察している)のに感服させられます。上にも書いたように、多くの人が知っているけど気に留めないものにしっかりと向き合っているのです。この姿勢から、その題材への愛も感じますし、漫才そのものへの愛を感じるのです。

毒がないとあっさりしたネタになり、愛ばかりだとそもそも笑えないという漫才の難しさを、ミルクボーイは見事なバランスで克服しているのです。

だからこそ、単調にも思えるスタイルを個性薄めで演じても、面白さとともに彼らの魅力が伝わってくるのです。

まとめ

  1. 最強の「箱」の発明
  2. ネタのチョイスの秀逸さ
  3. 程良い「人間らしさ」のなさ
  4. ちょうどいい毒と愛

以上、ミルクボーイの凄さを僕なりの視点で書いてみました。

M1歴代最高得点は伊達じゃないと思います。

今後もあのネタの「箱」を使う事で面白いネタを量産してくれる事でしょう。

楽しみに待っていたいと思います^ ^

参考文献

塙宣之 (2019). 『言い訳: 関東芸人はなぜM-1で勝てないのか』集英社新書.

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