前回の投稿から、気づけば1ヶ月以上が経過してしまいました。。。
色々とあったので仕方ない面もありますが、よくないですね。これからは継続的に更新し続けたいと思います。
僕が更新していない間に、このブログのテーマであるお笑い・バスケに関して色々なことがありました。
お笑いだと大きなお笑い番組がいくつかありました(キングオブコント含む)。
バスケだと、Bリーグが開幕したり、渡邊雄太が怪我したり、吉井裕鷹が三遠で覚醒していたり、男子代表の監督がホーバスの続投で決まったり、河村勇輝が日本人4人目のNBA選手になったり。
「河村勇輝が日本人4人目のNBA選手になったり」???
そうなんです、田臥勇太、渡邊雄太、八村塁についで4人目の日本人NBAプレーヤーが誕生したのです!!!
河村勇輝がNBAのコートに立つ日がこんなにも早くくると想像していた人は、流石に多くはないのではないでしょうか。
今回のブログでは、どのようにして河村勇輝がNBA選手になることができたのか、流れを確認しつつ、僕なりの視点(広い視野)で語っていけたらと思います!
河村勇輝がNBA選手になるまで
NBAの契約について:エグジビット10→2ウェイ
まず最初に、NBAの契約について簡単に確認しましょう。
詳しい・正確な説明はその道の専門家に任せるとして、とても簡単な説明をしたいと思います。
大きく分けて、NBAの契約には3種類あります。
①本契約(一軍=NBAチームに所属)
②2ウェイ契約(二軍=Gリーグのチーム&一軍に所属(50試合まで))
③エグジビット10(二軍に所属)
河村選手は、最初は③の契約だったので、基本はGリーグで今季はプレーするだろうとみられていましたが、プレシーズンゲーム(開幕前の練習試合)での活躍が認められて、②の2ウェイ契約を勝ち取ることに成功しました。
おまけに怪我人が続出していたので、開幕から2試合で出場の機会を得ることができ、河村勇輝は日本人4人目のNBA選手になったのです!
これまでの日本人プレーヤーとNBAの契約
ちなみに、これまでの日本人選手が①〜③の契約を結んでいたのかみてみましょう。
田臥勇太:①本契約(一軍=NBAチームに所属)
そもそもその当時は②以下の契約がなく、本契約がもらえなければ独立リーグ(ABA)みたいなところに行くしかありませんでした。
渡邊雄太:②2ウェイ契約(二軍=Gリーグのチーム&一軍に所属(50試合まで))→ ①本契約(一軍=NBAチームに所属)
最初に所属したグリズリーズでは②、ラプターズでは無補償から①にまで上り詰めました。その後ネッツでは①、移籍したサンズでは①を複数年契約、最後に所属したグリズリーズでも①だったはずです(記憶が曖昧なところがありますが)。
八村塁:①本契約(一軍=NBAチームに所属)
NBAドラフト9位(60人中)でリーグに入ってきた八村なので、正直他の日本人選手とは全く待遇が違います。彼がこれから②、③を経験することもないでしょう。
馬場雄大:③エグジビット10(二軍に所属)
NBA入りをかけて数シーズン挑戦した馬場選手ですが、彼は②以上にはたどり着けませんでした。③でもこれまでの日本人選手のキャリアを考えると凄いことなのですが、いかに②のレベルが高いかを考えさせられます。
富永啓生:③エグジビット10(二軍に所属)予定
河村選手と同時期にNBAのチームとの③の契約を発表した富永選手ですが、②以上を狙うチャンスさえもらえずGリーグに行くことが決まりました。
渡邉選手や河村選手のように②2ウェイ契約をすぐに勝ち取れるのか、馬場選手のように数シーズンかけてもなかなか②以上の契約がもらえないのか。
もちろん前者を望みますが、仮に馬場選手のような道を辿るなら、個人的には早めにBリーグに帰ってきて、活躍して実績を積んでから河村選手のようにアメリカに再挑戦してもいいのではないかと思っています(これについてはまたいつか書きます)。
以上、これまでの日本人選手のNBAチームとの契約状態についてでした。
これをみてもわかるように、河村選手は渡邉選手と似たパターンの道を歩んでいると言えると思います。願わくば、①本契約に早めに昇格して欲しいところですね!
ただし、河村選手がこれまでの日本人NBAプレーヤーと大きく違うのは、日本生まれ/育ち・Bリーグ出身の選手であるということです!
アメリカで学生生活をせず、プロとしてNBAに挑戦したという意味では初めてのケースです(馬場選手がそのパターンでしたが、追い抜いてしまいました)。まるで日本のプロ野球のようなケースですね。これからバスケもこうなっていくのか、注目が集まります!
なぜ河村勇輝はNBA選手になれたのか:広い視野からの考察
さて、NBAの契約について確認し、これまでの日本人選手の契約状況を見てきたので、いよいよ本題に入りたいと思います。
なぜ河村選手がNBA選手になれたのか?当然これはいうまでもなく彼の実力、弛まぬ努力や才能があってこそなのですが、このブログではそういうことではなく、これまでの日本バスケの発展・系譜を踏まえて考察をしたいと思います。
①田臥勇太の影響
河村選手は幼い頃から田臥選手の映像を見て育ったというので、おそらく田臥選手のNBA挑戦の流れはよく知っていると推察します。
まず大前提として、田臥選手は日本バスケ界のパイオニアです。誰がなんと言おうと、日本で誰も挑戦していなかったNBAという舞台に向かって挑戦し続けた、日本バスケ界のレジェンド中のレジェンドです。
田臥選手は能代高校で社会現象になってから、ハワイにある大学にバスケ留学をします。しかし言葉の壁や怪我などに阻まれ、中退して日本のトップリーグに加入するということになりました。
その後すぐにまたNBAに挑戦すべく渡米し、サマーリーグに挑戦。そこから2004年にサンズと本契約を結ぶのですが、数試合に出場しただけですぐに解雇されてしまいます。それからもNBAの本契約を目指し、2006年に日本で開催された世界バスケにも出場せずにアメリカで挑戦を続けましたが、2008年に本帰国することになりました。
ここからは僕の完全な推測ですが、河村選手はこの流れを踏まえてNBA挑戦の計画を立てたのではないかと思います。
たとえば、アメリカに挑戦するタイミングについて考えてみましょう。田臥選手は大学から行きましたが、中退になったように成功を収めることはできませんでした。一方河村選手は、高卒でBリーガーになることさえせず、まずは東海大学に進学し、中退してBリーガーとして数シーズン過ごし、今年はじめたアメリカに渡り、NBAに挑戦しました。
渡米を急がず、日本で準備をじっくりしてから挑戦した河村選手は、田臥選手の前例を踏まえて判断したのではないかと僕は考えています。
また、田臥選手は2006年に日本で開催された世界バスケにも出場しませんでした。何か事情があったのかもしれませんが、残念ながらこれは判断ミスだったのではないかと僕は思っています。
というのも、長らく世界大会に出られていなかった日本バスケにおいて、久しぶりの世界大会を自国で開催し、そこで成果を上げることは、日本バスケだけでなく田臥選手自身にも大きなメリット(=NBAチームへのアピールにできる)があったと考えられるからです。
一方河村選手は、東海大学を中退してBリーガーになり、2023年に日本で行われた世界バスケに出場して大活躍、そして今年行われたパリ五輪で世界のトップ国に対しても通用することを証明しました。
2023年の世界バスケ後には間違いなく海外チームに移籍することもできたはずでしたが、もう一度オリンピックという国際大会に出場することを見越して日本にとどまることを決めたのだと思います。
まとめると、「渡米を急ぎ、国際試合よりもアメリカで挑戦することを優先した田臥選手」と、「渡米を焦らず、国際試合を重視した河村選手」という形になります。これは、推測の域を出ませんが、田臥選手の例を河村選手は意識したのではないかと僕は思います。
ちなみに、僕は田臥選手の判断を責めたいわけでは全くありません。田臥選手はパイオニアだったため、当時のドキュメンタリー映像でも語っていたように、「誰にも相談できない」状態でした。そのため、ベストな判断は難しい状況にあったと思います。
また、2000年代前半は、今ほどNBAチームがインターナショナルプレーヤーに注目していなかったため、もしかしたらアメリカにいることがNBA入りへの最適解であったかもしれません。そして、日本代表は今ほど強くなく、2006年の世界バスケに田臥選手が出ていてもアピールにはならなかったかもしれません(さらに言えば、もしかしたらバスケ協会とのイザコザもあったかも?)。
このような状況の違いがあったにせよ、河村選手は現状をよく認識し、その中でベストな判断をし続けたからこそ、NBAプレーヤーになることができたのではないでしょうか。
②渡邊雄太・馬場雄大・富永啓生の影響
河村選手にとって、渡邊雄太と八村塁という二人の現役NBA選手が存在する環境でキャリア序盤を過ごせたのは幸運だったと思います。
特に渡邊雄太とは、代表活動で共に過ごす時間が長かったので、「本物」を間近でみることができて多大なる影響を受けたのではないでしょうか。
馬場選手について言えば、河村選手同様に日本で生まれ育ちBリーグから羽ばたいた選手として、いわば「直属の先輩」として、彼から学ぶことが多かったのではないでしょうか。馬場選手は残念ながらNBAにまだ到達できていませんが、彼のプロフェッショナルさを疑う余地はありません。
また、言い方が失礼かもしれませんが、長く海外にいればいいもんではないということも馬場選手から学んだのかもしれません。いかに2ウェイ契約を勝ち取るのが難しいのか、Gリーグが過酷な環境なのかを馬場選手から学び、Bリーグでしっかり成長してから海外挑戦を考えたのではないでしょうか。
富永選手は、河村選手と大の仲良しなのでいうまでもなく大きな影響を受けているでしょう。アメリカの大学バスケで活躍した富永選手を見て、同世代でもやればできるという希望を与えてもらったのではないでしょうか。
このように、河村選手はいわば「縦(馬場選手)・横(富永選手)・斜め(渡邉選手)」から学びを得ることで、より賢い判断をしながら海外挑戦にしっかり準備をすることができたと言えると思います。
③日本バスケ界の成長
日本バスケ界の成長も、河村選手にとって追い風になったといえるでしょう。
河村選手本人も認めているように、Bリーグで修行を詰めたからこそ成長でき、NBAになれたのだと思います。
「たられば」を言っても仕方ないですが、田臥選手の時代にBリーグのような成長できる場が日本にあったら、アメリカに居続けることにこだわることもなかったかもしれません。
また、ここまで書いてきた日本バスケ界の「先輩方」をはじめ、富樫勇樹や比江島慎なども含めて憧れ、見習い、競い合える選手がこれだけいたのも河村選手の成長を後押ししたでしょう。
また、そういった先輩たちが、日本国内でも激しく競い、高め合うことを文化として根付かせてくれたのも大きかったと思います。以前渡邊雄太選手は、日本代表の練習が「ゆるかった」と称していましたし、もっと遡ると、本帰国をした直後 (2008年頃)の田臥勇太もその当時の日本の選手たちについて、「もっと目の色変えて自分に挑んでほしい」といったことを発言されていました。
そうやって、先輩たちが日本のバスケを内側から変えていってくれたからこそ、そういった環境があったからこそ、日本代表は2019年から連続して国際大会に出続けることができており、大会本戦だけでなく強化試合も含めて世界の強豪と国を代表して戦う経験を得ることができました。
当然田臥選手以前にも、佐古賢一選手や折茂武彦選手など素晴らしい選手はいましたし、そのような選手たちも今の時代に生きていたら、もっと国際的にすごい選手になっていたかもしれません。
河村選手は言うまでもなく凄まじい努力家であり、当然才能にも恵まれた選手であることは間違いありませんが、このような歴史的・環境的な追い風があったことも、彼をNBA選手にさせて要因として忘れてはいけないと思っています。
まとめ
長くなってしまいましたが、河村勇輝がいかに「なるべくして」NBA選手になったのかと言うことを書かせてもらいました。
誤解のないように繰り返しておきますが、僕は河村選手の努力や才能を軽視しているわけではありません。田臥選手や馬場選手の海外挑戦に関する判断を「誤り」として否定したいわけでもありません。
しかし、河村選手のここまで成功、これから先のさらなる成功は、このような時代の流れとそれによって出来上がった環境を最大限生かしたからこそ起こり得たと言うことも、読者の皆さんに知ってもらえたら嬉しいです(特に、20年も前に河村選手と同じサイズで田臥勇太がNBAで本契約をとった偉大さはもう…言葉にできません)。
ぜひ河村選手にも本契約を勝ち取ってほしいですし、NBAを目指す他の選手たちも夢を叶えてほしいです。そして、河村選手の成功を受けて、BリーグからNBAに羽ばたく選手が増え、Bリーグにはそのような将来有望な選手が集まってくるというそんな明るい未来の到来を期待しています。
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